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鉄砲商から身を立て、明治維新後は貿易会社、建設業に転身。化学、製鉄、繊維、食品など、近代産業の礎になる企業を数多く興した。生死の境をくぐり抜ける冒険で、大倉財閥を築き上げた。戊辰戦争、台湾出兵、日清・日露、戦争によって大儲けし、軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど大倉組が独占したという。また、大倉喜八郎の活動範囲は企業経営の枠を超え、社会公共にも及んでいる。

1837 越後国新発田の名主大倉千之助の三男に生まれる
1867 江戸・神田和泉橋通に鉄砲商を開業
1871 日本初の洋服仕立て店を開業
1872 欧米各国を商業視察
1873 東京銀座に大倉組商会を設立
1877 西南戦争で陸軍御用に
1878 渋沢栄一らと東京商法会議所を設置、宮城集冶監を受注
1883 鹿鳴館を受注・建設
1886 東京電灯会社を創設
1887 藤田組と日本土木会社を設立。株式会社帝国ホテルを創設
1898 東京に大倉商業学校を開校
1906 ビール3社を合併し、大日本麦酒を創設
1907 帝国劇場株式会社、東海紙料を創設
1908 日本化学工業を設立
1910 南満州に本渓湖煤鉄公司を設立
1915 山陽製鉄所を創設
1917 財団法人大倉集古館を設立
1918 日清製油を設立
1920 日本無線電信電話を創設
1927 宮内省に隠居届け。家督を長男喜七郎に譲る
1928 大腸がんのため永眠。享年90歳。



大倉は17歳の時、故郷新潟・新発田から江戸へ出、かつお節店員、乾物店主を経て1867年(慶応3年)、鉄砲店の大倉屋を開業した。戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文は官軍、幕府軍の双方から舞い込んだ。大倉が語る「第一の冒険」は彰義隊の戦争である。官軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉は突然、彰義隊に連行された。官軍に鉄砲を売っていたからだ。生きて帰れないと観念した大倉だが、「官軍は現金払いなので売ったまでです」と商売の理を説き、九死に一生を得た。こうした体験が大倉を官軍御用達にしていく。

 大倉が津軽藩の注文に応じて大量の鉄砲・火薬を海路、津軽に輸送したのもこのころであった。当時、奥州の諸藩はほとんどが佐幕派であり、津軽藩のみが勤王派であった。このため津軽藩へ武器を輸送することは危険この上なかったが、大倉はこの注文を平然と引き受け、横浜から船を仕立て、小銃2500挺とそれに見合った弾薬を積んで海路はるばると津軽へ輸送したのである。ところで、当時の津軽藩は財政が窮乏しており、談合の結果、米で支払うことにしたのだが、商売としては不利な条件を大倉は承知した。その頃の大倉には津軽藩の注文に応じるだけの資力がなかったが、有り金はもちろん家財道具一切を金に換えてオランダ商人から小銃と弾薬を仕入れた。津軽藩はこの武器・弾薬によって、野辺地戦争、函館戦争に参戦し、勤王の実をあげ、大倉は義侠的な行為と賞讃されたのであった。それにしてもこの時点で幕府の崩壊と、王政復古の時代到来を読みきった大倉の洞察力も並のものではなかったと思われる。

 明治維新後、大倉が目指したのは外国貿易だった。「まずは欧米の商業を学ぼう」。大倉は1872年(明治5年)、米国から欧州を一年以上かけて回る旅に出た。ちょうどこの半年前、明治政府は内大臣の岩倉具視を全権大使とする「岩倉使節団」を欧米に派遣しており、大倉はロンドンやローマに滞在した際、使節団の大久保利通や木戸孝允、伊藤博文らと殖産興業を話し合う機会を得た。この出会いが大倉の運命を大きく変えた。
 帰国後、大倉組商会を設立し、1874年(明治7年)にロンドンに支店を設けて外国貿易の尖端を切った。貿易に乗り出した大倉を飛躍させたのは、建設・土木業への進出である。きっかけは仙台市に建設する洋風刑務所の宮城集冶監。建設業者がひしめく中で、内務卿の大久保は大倉組を指名した。大倉組には建設・土木の実績がほとんどなく、藩閥とも無関係で、異例の指名だったが、欧米で知り合い、台湾出兵や西南戦争では命懸けで軍の御用を務めた大倉に、大久保らの信頼が高まっていたのだ。その後も大倉には、鹿鳴館建設などの事業が舞い込む。

 文明開化の波が押し寄せる中、大倉は1887年(明治20年)、巨大ゼネコン(総合建設会社)を創設する。藤田伝三郎の藤田組と大倉組の土木部門を合併した、『有限責任日本土木会社』だ。資本力、技術力ともに群を抜き、帝国ホテル、東京電灯(現東京電力の前身)、日本銀行、歌舞伎座、碓氷トンネルなど、後世に残る建造物を請け負った。しかし日本土木会社は5年半で解散を余儀なくされ、建設部門の大倉土木組(現大成建設)と、商業、工業部門の大倉組に分離する。98年に倒産した大倉商事の前身は、この大倉組である。
 大倉組の実力がいかんなく発揮されたのは戦争だった。軍需品の調達、輸送はもちろん、日露戦争では塹壕や架橋用の製材工場を鴨緑江流域に移設し、弾丸の飛び交う中で操業した。三菱・三井のような財閥も戦争の無理難題に二の足を踏み、実力があり危険な仕事にも応じられるのは大倉組しかなかった。日清、日露の戦争は、大倉に膨大な利益をもたらした。これを元手に数え切れないほどの企業を興す。特に日露戦争後は大日本麦酒(現アサヒビール)、帝国劇場、東海紙料(現東海パルプ)、日本化学工業、帝国製麻(現帝国繊維)、日本製靴(現リーガルコーポレーション)、日清製油、札幌麦酒(現サッポロビール)などの設立に関わった。

 あくなき事業意欲は、中国大陸に広がっていく。「満州(現中国東北区)を経済的に経営するのが戦死者への供養だ」。日露戦争中、旅順攻撃の前線を慰問した大倉は大陸進出を決意、それが国策に合致すると見た外相の小村寿太郎は、「大いにやってください。骨は私が拾ってあげますから」と激励したという。
 大陸で最も力を入れたのは本渓湖の製鉄所と炭鉱開発だった。すでに日露戦争中に大倉組の社員が日本軍に同行して資源調査し、有望との結果が出ていた。その判断に、大倉は現地を見ないで会社設立を決断する。

 一度任せたら最期まで信じる。それだけ人物を見抜く目には自信があったのだろう。1915年(大正4年)、米国人フランク・ロイド・ライトに帝国ホテルの設計を依頼したときも周囲の大反対にあったが、一切口を挟まなかった。
 注目すべきは日中合弁にしたことで、大倉いわく、「商売は双方の利益をはかるようでなければ、幾久しく円満な取引は継続しない」。奉天(現瀋陽)の軍閥、張作霖とは様々な合弁事業を交渉した。25年(大正14年)満州を訪れた大倉に、張は白馬隊二百騎を護衛に付け「国賓並み」に遇した。合弁が大きな利益をもたらしたからだろう。

 中国と共存共栄を目指す大倉は、しばしば政府と衝突した。辛亥革命で成立した中華民国臨時政府が、大倉に資金提供を求めた時、革命政権を支援すべきだという大倉に、政府は「冒険的すぎる」と煮え切らない。「私一人でやる」憤然と席を立った大倉は、旧友の安田銀行頭取・安田善次郎から借金し、中国側に貸し付けた。大倉の心意気が通じたのだろう。中華民国政府は2年も経たない内に全額返済している。
 大倉が手を染めなかったのは銀行業で、大倉は「借金をして仕事をしながら、その一方で金貸しをすることができるか。おれは銀行など真っ平だ」と言っている。高橋是清は「借りた金ゆえ事業にも熱が入りやり方も堅実にならざるを得ない。非常な見識だ」と称えた。
 新しいこと、人のやらない事に挑む冒険心。それを裏打ちする細心の商人魂。大倉の生涯には現代の日本人が忘れたものがある。

「石ころ缶詰事件」
大倉喜八郎ほど評価の分かれる人物も珍しいという。「木にたとえれば四千年の大樹」(幸田露伴)、「稀に見る士魂の持ち主」(作家の村上浪六)と絶賛される一方で、高村光太郎は「グロテスクな鯰(なまず)」と酷評している。
 「政商」「死の商人」と大倉を攻撃したのは「当時新しく注目されだした社会主義者だった」(砂川幸雄著『大倉喜八郎の豪快なる生涯』)。材料は日清戦争時の「石ころ缶詰事件」。これは戦地に送られた牛肉の缶詰に、石が詰まっていた一件である。
 缶詰を扱ったのは辺見山陽堂という会社で、大倉とは関係ない。しかし、その頃の大衆の情緒は、日本軍の圧倒的大勝の報に湧き上がり国民感情が高まっていて、どうしても勧善懲悪で終わらなければ我慢できない江戸時代そのものだったから、善玉を強調するためには徹底的な悪玉が必要だった。善玉の皇軍将兵を賛えるために、石ころ缶詰の小さな風説がとりあげられたのだ。つまり悪玉は大倉でなくても誰でもよかったのである。木下尚江の反戦小説『火の柱』では、大倉をモデルにした悪徳商人が犯人になっており、大倉の死後も、それは事実として人びとに信じられた。
 大倉は、慈善事業などに巨額の寄付を続けた。例えば、1911年(明治44年)には、社会福祉法人・恩賜財団済生会に100万円を供している。現在の100億円にも相当する額である。札幌の大倉山シャンツェにも、秩父宮の要請で建造費を出した。

 50万円の寄付で開校した大倉商業学校(現東京経済大学)もそのひとつ。学校設立に際し大倉は、「(金を)金庫に封じて子孫に残すも、いたずらに怠慢の助とならん。公益に供用して商業を振るふの資となさん」と語っている。儲けた金は子孫に残さず、国家社会に投じようという考えであった。
 また大倉は東洋美術品の収集家としても有名である。こんな話がある。中国で義和団事件が起きた時、中国美術品を満載したロシア船が長崎に入港し、日本で買い手が見つからなければ米国に運ぶという。文化財の散逸を恐れた大倉はすべて買い取った。財団法人大倉集古館を設立、集めた美術品を寄付し、日本初の私設美術館として公開もした。
 美術以外にも芝居、書道、邦楽など多趣味だったが、「鶴彦」の号を持つ狂歌は素人離れしていた。『狂歌・鶴彦集』『鶴乃とも』などに掲載された歌は約2千首以上に上る。

「感涙もうれし涙とふりかはり 踊れや踊れ雀百まで」

 没する二週間前に詠んだ最後の歌である。


大倉と渋沢栄一
 大倉が17歳のとき江戸で一旗あげる決心を固めたそのきっかけは、塾の学友の父が不合理な処罰を受けた事件だった。
 その父は、藩の目付役に路上で出会ったとき雨で道がぬかるんでいたので、下駄を履いたまま土下座した。それが無礼と咎められ、閉門謹慎を命ぜられた。武士と平民の差別に憤慨した大倉は江戸に出て大商人となり見返してやろうと決意したのだった。
 同じ頃、栄一も代官の横暴に激怒して、尊王攘夷に身を投じている。

 大倉は栄一とウマが合ったという。育った境遇が似ているうえ、二人とも西欧を実地に見ていた。「日本の実業軽視の風をなんとか改めなければならない」という栄一の意見に大倉も大賛成だった。
 明治11年(1878年)、当時大蔵卿の大隈重信が栄一に、「日本にも商人が集会して相談する機関をつくっては」と提案した時、栄一は直ちに大倉と図り、二人が発起人となって東京商法会議所が設立されたのである。
 また、明治20年(1887年)には大倉と栄一が組んで、帝国ホテル、札幌ビールをはじめた。

※参考文献・・「20世紀日本の経済人」(日経ビジネス文庫)
「明治の群像 知れば知るほど」(実業之日本社)
「鯰」 大倉雄二 著
「実録 創業者列伝」(学研)

■大倉喜八郎を知る(日本経営史) ■大倉財閥と大倉高商 ■大倉財閥と会社
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